by ばかぼん父
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2005年 03月 09日
これまでの私がこのブログで書いたBSE関連の記事は、「「評価」し「改善」すること」、「国内初の変異型ヤコブ病が確認された」、「牛肉輸入再開へ」、「全頭検査は非常識」発言についての4本だ。
どれもネタにBSEを使っているが、テーマとしては別のことについて書いているのもあるので、一度整理する意味で、まとめておきたい。 私が変異型クロイツフェルトヤコブ病に興味をもったのは、 「食べたプリオンが、消化されずに体内に入り、さらに脳血液関門も突破して脳までそのままの形で到達するのか?」という疑問から始まっている。 プリオン病が発症するには、「量の壁」「ウシとヒトの種の壁」「消化器系から脳までの距離(臓器)の壁」の三つの障壁がある。 なのに、実際に患者さんが潜伏期たった5年〜10年で出てしまったので、 正直驚いたし「どうしてだろう?」という疑問をずっと持っていた。 臓器の壁を越えることを含めた実際の脳への感染の仕組みはまだ解っていない。 特にイギリスは危険部位の除去を始める(1989)前に数千頭のBSE牛を食していて、研究者自身も食べているかも知れないなので、これについての研究は、ある意味命がけで行われているはずだ。 しかし、変異型ヤコブ病についての論文も多くないし、まだわからないのは、何故だろう? それは、「こうしたら発症する」という「原因と結果の関係」にないためだと思われる。 感染病としては患者数が少なすぎる、大部分の人は食べてもまだ発症しないのだ。 論文も仕組みの解明に繋がるというより、症例報告のようなものが多い。 詳しく知りたい方は、BSEやクロイツフェルトヤコブ病の状況や、汚染の可能性のある血液製剤の流れなどが、おそらくもれなくサーベイされているので(ProMed資料)参考にしてください。 これも時系列で見ると、「大変だ」から、だんだん楽観的になってゆくようだ。 英国におけるクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)統計を見ていただきたい。 毎月更新されているが、たったというべき患者数が、既に減少傾向に転じている。 散発的なCJDは、プリオンが感染しなくても、老化によって正常プリオンタンパク質が異常型になりスポンジ脳になってしまった患者さんで、この病気は日本でも年間100例程度は出ている。 イギリスにおいて、BSEの牛を食べたことによって発症した変異型のCJDの患者数は、散発型の3分の1程度だ。 イギリスで BSEの牛を食べてしまった人の潜伏期は、現在進行形なので確定できないが、その患者数が既に減少に転じている。 この後、二峰性に再び上昇する可能性は否定できないが、そうなるという根拠もない。 BSEの牛の中でも、危険部位と同定された脳や脊髄を食べ(量の壁)、不幸にも何らかの理由で脳までプリオンが達した(臓器の壁)人だけが発症するのだが、その確率は極めて低いか、危険部位を大量に食べた少数の人だけが発症しているのか、と考えられる。 その危険率を算出しようにも、脳以外への感染を調べるのも解剖が必要なので、 出来ていないのが現状だ。 私の自分の疑問に対する答えとして今考えているのは、 不幸にして発症した患者さんの臓器の壁については、 脳への感染という意味で、インフルエンザに罹った人のうち、 運悪くインフルエンザ脳症になってしまう症例に似ているのではないか? ということだ。 発症してしまった、つまり、脳までプリオンが到達してしまった患者さんは、 本当に運の悪いレアケースであり、 体内に入ったプリオンが、3つの壁を突破できないまま潜伏期のうちに 天寿を全う出来る場合の方が、大部分ではないだろうか?と考えている。 証明した訳ではないし根拠もないが、実際患者が少ないので、そう見える。 かといって、これからBSEのウシを食べないことと、危険部位を食べないことは、 もちろん当然のことだ。 BSEの牛を出さないためには、肉骨粉使用の全面禁止で、人災によるBSEは 回避できる。 牛にも散発型のBSEがあるが、それは若い牛だけを食べることで回避できる。 危険部位を食べないことは、高度な除去の技術の普及をすることで可能だ。 しかしBSEの牛を食べないための「全頭検査」には、 検査を請け負っている機関は仕事ができて潤っているという、 政治的、経済的な一面はあるが、その効果については、 危険部位除去だけに比べてどの程度安全性が増すのかという、 科学的な根拠も出せないのも事実だ。 これで、アメリカ人が納得する訳がない。 これには検査精度と、危険部位の除去率のバランスの問題があるうえに、 発症する症例が少なすぎて、その効果を検証できるとは思えない。 もともと動物実験も組めないような頻度だから。 この病気は発症例が少なすぎるため、科学的な証明ができない。 科学的な根拠がないので安心できないといった、ジレンマになっている。 この病気自体の評価は、一世代すぎないとできないのだから (潜伏期は50年以上かもしれない)、 科学的に安全だと言う事は、どんな科学者にも出来ないだろう。 新聞紙上でいろいろな学者の「安全性が確認されない」というコメントを見るが、 当たり前のことを言っているだけで、ちっとも建設的な提言ではない。 仕組みの解明ができるか(患者数が少ないので証明できるのは一生ないかも)、 国民が忘れるまで(あと50年(クールーの潜伏期)くらいか)放置しろと言いたいのか? もっとも「絶対安全ですか」ときかれたら私でも「そうとはいえない」と答える。 「あなたは輸入牛肉が解禁されたら食べますか?」「その理由は?」と 聞いてもらいたいものだ。 話は変わるが、危険である確率は、個人によって感じ方が違うと思う。 たとえ1000分の1でも、自分は絶対999の方に入ると信じこめる人もいれば、 1000000分の1でも怖いので嫌だと思う人もいるだろう。 国民が自分のことを自分で決められないほどバカじゃない事を信じて、 この現状を正直に説明し、 「肉骨粉全面使用禁止」と「危険部位除去の徹底」を条件に、 輸入再開の上、牛肉を食べるぐらい「個々の判断でどうぞ」とは できないものなのか? #
by bakabon_chichi
| 2005-03-09 19:04
| はぐれ研究員の独り言
2005年 03月 07日
中山文部科学相の発言には、だんだんコメントする気が失せてきているが、
この方、かなり自分の妄想世界を正しいと思い込み過ぎではないか? 「競争は悪だとしてきたが、社会に出ると競争社会で子供が落差に戸惑う。こういう今までの教育は、ニートなどの予備軍の『大量生産』に手を貸しているのではないか」と述べ、教育現場での競争の重要性を強調した。 「競争は悪とする教育がニート助長」 中山文科相語る asahi.com 私が習った時代も、私が育った地域も、かみさんが育った地域も 今息子が通う小学校でも、競争が悪だなんて教えていない。 「競争が悪」という教育を、日本のどこの地域で、 いつからいつまでやっていたのか?聞いた事がないけどね。 ただ、確かに競争させる機会は減ったと思う。 でもそれは、「競争が悪」だからじゃなくて、教師がその後のフォロー等、 個別に子供達に注意を払う事を、面倒だと思ったからじゃないのか? また、ニートが増えたのは、高度成長期に比べて求人が減り、 社会の閉塞性からも「どうせ頑張ったって、知れている」と やる気も情熱も失われたからじゃないのか? そんな社会を改善する事が解決策であって、学力テストじゃないだろう? 文科相自身が「全国統一学力テスト」を導入したいのはわかるし、 TVのインタビューでおっしゃっていたように 「教師をやる気にさせる」ようにムチをいれる効果はあるだろう。 でも、この理由については、どんな根拠があるのか全く理解できない。 私は、「全国統一学力テスト」を導入すれば、逆にさらにニートが増加すると 予想する。 学力テストを「自分の足らないところを見つけるため」に行い、 比べるのは他の子供ではなく、「自分自身」とであることを 解らせなければ、劣等感から「やる気」を失う時期がさらに早まり、 できると思っていた子でも、上には上がいる事を知り、劣等感に苛まれかねない。 コンビニの前でたむろする小学生が見られるようになるかも知れない。 「昨日の自分」より「今日の自分」、「今日の自分」より「明日の自分」が、 進歩していることを解らせてあげることが、やる気を育てることになる。 このフォローをする事の方が、テストをすることより何倍も重要なことだ。 ********************************************** TBしてくださった「緑の森を楽しく歩いた」さんの記事によれば、 みんなで手をつないでゴールとか、全員が主役のような教育を受けたところが あったらしい。文科相はこのことを言っているのですね。(枠内追加) *********************************************** #
by bakabon_chichi
| 2005-03-07 13:15
| 教育について
2005年 03月 06日
島村農水相が牛海綿状脳症(BSE)対策について「全頭検査は世界の非常識」と発言したことへの批判が収まらない。3日の参院予算委員会では民主党議員の追及を受けて発言を事実上撤回したものの、身内の自民党からも厳しい批判が出ているらしい。
農水相、批判の的 BSE「全頭検査は非常識」発言 asahi.com どうも政治家の興味は、「失言」を見逃さずに指摘することに夢中で、農水相がなぜ「非常識だ」と考えたのか、なぜそれが「非常識ではないと言えるのか」つまり「なぜ、どうしても全頭検査が必要であると言う理由」についての議論や説明をする気はないようだ。 ご本人もあっさりと失言と認めるとは、信念があっての発言ではなかったようだ。 asahi.comの2.27の記事によれば、島村農水相の発言の意図は、国民のために、 アメリカ産牛肉の輸入を再開したいと言うより、農水省からの再就職先の確保のために、 BSE問題の失政を過去のものにしたいから?と書かれている。 一方、輸入再開をせまるアメリカへの対応を決めるのは、政治家が考えているのではなく、 内閣府の「食品安全委員会」の結論を待っているらしい。 某ブログで書き込んでいた某氏が、本当に食品安全委員会の人間であるとは限らないが、その方の書き込みから推察できることが、本当にこの委員会の実態を表しているとすれば、悲しいかな、とても科学的な議論、つまり事実に基づいた客観的な議論がなされているとは思えない。 全く、どいつもこいつもって感じだ。 #
by bakabon_chichi
| 2005-03-06 18:58
| ちょっと社会派
2005年 03月 06日
セントバーナードとチワワをみれば、形や大きさが随分違うが同じ種だ。
イヌはオオカミとも雑種が作れ、その子供にも繁殖能力がある。 一方、ライオンとヒョウの雑種のレオポンや、ライオンとトラのライガー、 海イグアナと陸イグアナの雑種は、子孫を残すことができない。 このように現存する動物を見ても、種として分離していった過程が見える。 今でこそ、ヒトは世界中を行き来できる交通手段を手に入れたが、 昔は歩いてしか移動できないので、群れの中や、せいぜい近くにいる他の群れとしか繁殖できなかった。 動物も、オカピは森の中からでないし、キリンは草原にしかいない。 比較的狭い世界で、隔離された中で繁殖を繰り返してきた。 親子の鑑定や、髪の毛や血痕などからDNAによる人物の同定ができるように、形や機能に一切変化を与えないDNA配列の変化は沢山起きている。 それらも含めたDNAの変化が伝えられるのは、繁殖することのできる範囲の中だけだ。 形や能力を環境に合わせるのは、DNAそのものに突然変異が起きなくてもできた。(このように考える根拠は前編を参照) 同じ環境にいれば、その集団には、同じような形態変化が起こりうる。 その狭い範囲で、何代も世代を重ねるうちに、DNAに起きた変化が積み重なって、種として独立すると考えられる。 先に形態変化が起き、DNAの変化は色々なところにランダムにおきる。 生きるために不利になるものは淘汰されるが、有利にならなくても、 不利にならないものは、その形態や機能に影響をしないものでも蓄積されていく。 言い換えれば、獲得形質は遺伝できないが、元々もっていた能力が不要になれば、 突然変異を許容することでき、結果として能力を失ったことは遺伝されるということだ。 オカピを草原で飼っても首が伸びないように、キリンを地面に草しかない場所で飼っても首が短くなることもない。 もうそれぞれ、その形態変化は後戻りできない形になっている。 また、オスからメスになったり、環境に合わせて、 生活サイクル自体を変えたりできる生物は沢山いる。 原始生物に近いほど、環境に適応する自由度が高いのではないか? 環境に適応した形態変化が先に起こって、後からDNAに起きた変化の蓄積によって固定されていくとは、考えられないだろうか? 私は次のように考えている。 キリンやオカピの祖先は、元々首の骨の長さを大きく変える能力を持っていた。 森で暮らすオカピは、その能力が不要なので、その能力が使えなくなる変化が起きても不利にならない。 一方、草原へ出たキリンはその能力を使って、首の骨の長さを伸ばしていった。 その環境では、また短くする必要がないので、オカピと同様に短くすることができなくなった。 どちらも形態変化の後で起きたDNAの変化の蓄積によって、種として固定された。 獲得形質を遺伝するのではなくて、変えうる潜在能力を失っていったのではないだろうか? このように考えれば「進化とは、形を変えたり、機能を環境に合わせることのできる能力を捨てていく過程」とも言えるかもしれない。 #
by bakabon_chichi
| 2005-03-06 10:04
| はぐれ研究員の独り言
2005年 03月 05日
キリンは首を伸ばしたことで、他の種と食料を得る競争を避けることができ、
現在まで生存することができている。 「合目的」に身体の形態を変化させているように見える。 横浜のズーラシアにオカピという動物がいる。 シマウマのような身体にキリンに似た頭をもっている、森の中で暮らしている動物だ。 例えば、キリンはオカピの中で起きた、首の長い突然変異種だろうか? そうだとしても、その変わり者(奇形)が、その群れの中で 他のオカピより強く、子孫を残していけるだろうか? 「突然変異と自然選択」説では、矛盾を感じるところだ。 息子の顔は眉毛と口はかみさん似で、目と鼻は私に似ている。 遺伝子の妙を感じるところで、目、鼻、口、耳といったパーツの数や大まかな配置だけでなく、親と似るように遺伝子によって形が決められている。 一方で、身長に占める足の長さの割合や、あごの形、それに伴う歯の数など、1世代しか経過していないのに変化しているものもある。 身体の特徴は、どこまでDNAによって決められているのだろうか? ダーウィン・フィンチという、島と食性によって、嘴の形が違った鳥がいる。 ヒトの中にも、体の大きさのみならず、水中でも物が空気中と同じように見える能力を獲得した海洋民族もいる。 都合の良い突然変異が「偶然に」起きて、自然選択されたというのには、 でき過ぎた話だ。 繰り返すが、獲得形質が生殖細胞に影響するとは思えない。 とすると、生き物の形態は、DNAそのものに変化がなくても、 ある程度環境に適応する能力を持っていることになる。 かといって、オカピを森ではなく、草原に連れ出し、 高いところにしか食料がないところで飼えば、キリンになるだろうか? それこそ、膨大な時間をかければ可能性が0とはいえないが、 その前にオカピの群れは、絶滅してしまうだろう。 環境に合わせて形態や特徴を変えられる能力と、 遺伝子によって決められていることの 少なくとも2つの要素の関係が進化の仕組みではないだろうか? #
by bakabon_chichi
| 2005-03-05 05:43
| はぐれ研究員の独り言
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