by ばかぼん父
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2004年 08月 07日
この前「わかる楽しさ」や、「知る喜び」を教えたい(伝えたい)と、
えらそうなことを書きましたが、 自分自身を振りかえると、それを知ったのは社会人となって さらに随分たってからでした。 「タイムマシンで戻って高校生や大学生の頃の自分に伝えたい」ような、 知っていたかどうかで随分違ったこともあります。 それは仕事に関連することだけでなく、 社会にでてから、いろいろな経験や見聞きしたことで考え方が成長し、 以前習った時には全然分からなかった「本質的なこと」が理解できて 「なるほどねぇ!」ってことも多々あります。 大学の理学部に進んだときは、「理学部というのは先が狭き門」と言われて、 高校の教師を職業として考えてました。が、家庭教師のバイトを経験し、 「自分は教師になるべきじゃない」と思い、別の道に進みました。 教師は、社会にでて一度別の職業を一人前になるまで経験してから、 「子供たちにこれを教えたい」という情熱を持った人が、 転職して教師となるというのが理想じゃないかって思います。 教科書に出ていることが、現場で実際に役に立つ事を教えたり、 学問の「面白さ」を心から「面白い」と思っている人が伝えれば、 生徒も学習していることの意味がわかったり、楽しく学習できるんじゃないでしょうか? 話がそれました。 くろねこ@国語塾の記事に、教師を目指す若者との 対談がでてます。 (このブログのクロネコととさんの授業風景が楽しいのと、私は中学高校は西宮市 の公立出身なもので関西弁が懐かしく好きなのでよく読んでます) ここにでてくる教師を目指す若者も、その指導教官も素晴らしいと思います。 その最後の部分ですが「進学塾が悪」と関西では言われているのかも知れませんが、塾によっては、その辺の小学校より勉強を楽しく教えているんじゃないでしょうか? 私が考えるに、無垢で素直な子供の時期に教える教師は、 子供たちが「勉強する事って楽しいことなんだ」と思えるように教え育てるのがお仕事だと思います。小学生では、まだ受け身でも、 中学生にもなれば、子供自身が面白いと思えば、後は放っておいても自分でやるはずです。 また、学問の道に入ろうが、社会へでようが、専門分野の知識は、教え子たちが教師のレベルを越えるのが当たり前です。 なので、教師の仕事は子供たちが「自分で考え、判断できるよう、自ら学習していける」ように指導することだと思います。 一方、一般に塾の経営戦略としては、手取り足取り教えてもらわないとできないけれど、 教えたことはキッチリこなして結果をだす子こそが、「良いお客さん」でしょう。 私が望む教育は「塾」ではなく「学校」がやるべきだと思います。 しかし現実は、学校には望めないどころか逆なのかもと感じてます。 公立の教員の中にも情熱のある良い先生もいるはずですが、 「悪貨が良貨を駆逐」しているのか、それとも我が家の運が悪いのか、息子の小学校で「はずれ教師」には出会いましたが、教頭、校長を含め、これまで「この先生なら安心」と思える方には未だお会いできてません。 7月19日付けの朝日新聞の記事によれば、教師不足を理由に、 結果として、教師が子供に嫌いな科目を作らせるようなことをしています。 「ゆとり教育」というのは、教え子の教育に費やす情熱と時間を削ってできた「ゆとり」を どうするためのものなのでしょう? かみさんとも、「こうしてみると昔の先生は偉かったんだなぁ」と話すことも度々ですが、このまま公教育に任せることは、相当な勇気と覚悟のいることだと思います。 私立中学に入学できさえすれば良いってものでもありませんが、極端な話、本来受験塾は「受験テクニックを教え、豊富なデータに基づき、入学試験で合格を勝ち取るための的確な指導をするところ」で良いはずです。 ところが「子供の好奇心を刺激し、学問の本質を教えて欲しい」とメニューに載ってなさそうな、我が儘な注文もしたいぐらいです。 本末転倒ですね。足らない面は、親がやるしかないのでしょうが、気になる人と気にしない人の考え方の温度差は広がる一方の様な気がします。
by bakabon_chichi
| 2004-08-07 10:02
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