by ばかぼん父
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2004年 10月 02日
「天動説を小学生の4割が信じている」という新聞記事からブログワールドのあちらこちらで論議が展開しています。 彰の介さんは「天動説論争(続編)」で、今回の論点を以下のように整理されています。 1) 学校で教えなくても知っているべき常識ではないか? 2) なぜ小学校で教えないのか? 文科省の御手洗次官は「小学校では観察を通して太陽の動きを学ばせ、中学校では自転、公転を体系的に教える。理解できない段階で単なる知識として教えることが良いことか」と述べました。 一方、「教師の指導力の問題になるが、授業の中で、(太陽と地球と)どっちが回っているのかという話になることは容易に想像できる。家庭や社会でも、会話の中で大人が教えることは十分可能だ」と、教師の工夫や家庭での教育も求めました。(毎日新聞 ) 2)に返答しながら1)を求めたわけです。 文科省の対応からは「教養」や「常識」としての知識を身につけるためには?という観点のみで「理科教育」を捕らえられているように感じます。 また子供の教育を現場の一人一人の教師の情熱や各家庭の考え方に「丸投げ」しているようにも見えます。 瀬戸智子さんは「科学はロマンから」と「科学的とは何か」で、 「科学とは「真理へのあくなき探求」「絶対へ近づこうとするロマン」であり、教育者は先人の明らかにした「真理」を正しく伝えなければならない」と述べられています。 「真理へのあくなき探求」と言われると、すごく高尚な感じがしますが、 実際には「これがどうなっているのか、こうすればどうなるのか、どうしてこうなるのかを、知りたい」という素朴な「好奇心」を満足させるという「知識欲」が原動力です。 私は「理科教育」に「豊富な知識を詰め込むこと」を求めていません。なぜなら「知識」はその気になればいつでも調べることができるからです。 それよりも子供に「なぜだろう?」「どうなっているのだろう?」 という「知りたい!」という気持ちを持つような、興味を引く授業をして、「好奇心」や「疑問」をもたせて、それに応答する形で「真理」を伝えて欲しいと思います。 例えば、以前にも紹介した齋藤先生の理科のページの5年6年の理科の授業をご覧下さい。 「好奇心」は気持ちが若いほど旺盛なものだと思うので、教育行政や教育関係者には「成長期における教育」の影響の大きさとその可能性について考えてほしいと思います。 子供たちには無限の可能性があると思っています。 彰の介さんは試験にでない知識を「無駄知識」と表現され、その有用性を言われています。私は知識に無駄なものはないと思っています。その知識を知ることで好奇心を満足できれば充分でしょう。しかし「何に対しても(試験に出ないものにも)好奇心を持とう」という主旨には同感です。(そういう意味でよろしいでしょうか) 「無駄知識」と言う言葉で「トリビアの泉」というTV番組を思い出しました。 あの番組の面白いところは「実際に検証」しようとするところです。 (この点では立派な科学番組です。) かつて「北海道から赤道に近づくにつれ、体重が軽くなる」というのを実験してました。 これは半径の違いによって掛かる遠心力が違うためです。 「地動説を説明できますか?」という問いに対する、天動説を否定し、地動説を支持する実験ですね。 だから地球は回っているんです。
by bakabon_chichi
| 2004-10-02 10:05
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